久生十蘭には「予言」という傑作短編があります。
この作品について、都筑道夫がこう解説しています。
「人称代名詞なしの一人称で、日本には珍しい近代怪談を書く、という離れ業をやって、みごとに成功している(中略)そんな苦労をなぜするか、という理由の主なるものは、語り手が透明になって、読者との距離がせばまり、臨場感が増すからだ」
つまり「何を書くか」だけではなく「どう書くか」です。
物語が浮かんだとしても、それを単に書くのではなく、誰に語らせるか、どう語らせるかで作品は大きく変わります。
それにしても、そもそも語り手を透明にする、そのために人称代名詞を使わない、とはどういうことだ?と思って久生十蘭を読み始めたのが、沼に嵌まり込むきっかけでした。