「ICT×インクルーシブ教育セミナー」その3:その詩を書いたは誰かという、よくある問題

教育現場における生成AI活用をめぐる最近の動向を、自分はどうしても特別支援教育界隈から眺めることになるんですが、いまだに話の重心が「プロンプトをどう書くか」という話にとどまっている事も多く、そうなると、まったく興味が持てません。

生成AIの使い始めに「プロンプトを少し変えるだけで結果が大きく変わる」という体験をするのは自然ですし、その驚き自体を否定するつもりはありません。ただ、その初期の体験が、そのまま「プロンプトを操れる=AIを使いこなしている」という評価(それも自己評価・笑)に置き換わっていくのは、かなり雑です。
プロンプトの工夫は、AIの挙動を調整するための手段ではあるけれど「この一文を入れると精度が上がる」といった話ばかりで、生成AI活用がいつの間にかテクニック自慢の場になっているのはよくある話で。

生成AIを使った創作活動についても、同じ構図が見えます。子どもにAIを使わせて詩を書かせる、歌詞を作らせる、曲を生成させる。そうした実践自体を否定するつもりはありませんが、実践の中身と評価の軸が「プロンプトにどんな言葉を入れたか」「どんな作品が出てきたか」だけに寄っている例を、ことに最近よく見かけるようになってきました。

でもねえ、たとえば「友達への気持ちを歌にしよう」なんて言った場合に「友達」「ありがとう」「うれしい」「これからも一緒」とかいった言葉は誰でも出てくるでしょう。知的に課題がある子に、会話の中からそんな感じの言葉を言わせて、それをプロンプトに入れて、それらしい詩やいい感じの曲を生成させるような実践が…うーん、結構見かけますよ。
けれど、生成された詩や歌の完成度だけを見て「表現できた」「可能性が広がった」と満足してしまうなら、そこで起きているのは創作でも学びでもなく、生成結果を鑑賞しているだけでしょう。
何をもってその子の創作と言えるのか、はそれ自体が非常に難しい問題ですが、そこに向き合わないでありきたりの言葉で生成された、ありきたりのアウトプットを見て「うまく使えている」と評価してしまうなら、それは創作どころAI活用ですらありません。自己表現ではもちろんないですし、学習でもないです。

前回、気を衒って「AIの価値を問うな」と書きましたが、偶然それは正しい方向性だったなと。
AIが教育に使えるかどうか、使うべきかどうかといった議論に引きずられる前に、見るべきポイントはもっと単純です。教員は、生成AIを使って何を省き、何を残しているのか。AIに任せているのは作業なのか、それとも判断なのか。その線引きが曖昧なままでは、どれだけ新しい道具を使っても、教育は更新されないでしょう。

これを踏まえて、鈴木先生の「やまなし」がどれほど「どうかしている授業」なのかは、次回。まとめ。

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