「サリーとアンの課題」で自閉症をわかったつもりになるな


この題名はかつての自分や、自分と似たような思考の袋小路に陥り易い人に言いたいことです。
名著と言われながら版元の倒産で長らく入手困難であった「ことばと行動」が復刊されました。

自分がこの本のオリジナルを手に取ったのは、ずばり第9章の奥田健次先生の『認知発達と言語行動:「心の理論」研究から』が読みたかったからです。当時どんな文脈で論文を追っていたのかはすっかり忘れましたが「心の理論」に関する文献を読んでいた流れなのは間違いありません。
そこで当時新進気鋭の若き行動分析学者の文章に接して、ガーンとやられました(頭悪い表現)。
みんなが待っていた復刊。気になる方はぜひ手に取ってください。

新旧揃い踏み

ここからは、代表の個人的なつぶやきです。
奥田先生の執筆部分は、当時の自分にとってとても示唆に富む物でした。
以下、引用(一部省略)
例えば、般化と言う概念は、個体の能力によって定義されるものではなく、観察可能な事実として定義されるものである。般化についても能力で説明すると循環論となり、こうした説明からは何も役に立つ知見が生まれてこない。例えば、般化が見られない事実について、「いくつかの事例から一般的な法則を見つけ出す能力に障害があるため、般化しない」、「般化しないのは、法則を見つけ出す能力に障害があるため」のように説明の順序を組み変えただけの罠に陥ってしまう。

(中略)
例えばバロン・コーエンは、「心を読むシステム」において「共有注意機構」や「心の理論機構」といったモジュールが自閉症児は生得的に損われていると考えた。しかし、仮説構成概念を用いた新しいモデルを構築したところで、これらは操作不可能な概念であり、言葉の指導やコミュニケーション障害への援助には役立たない。

自閉症に限らず、私たちの目から見て奇異に映ったり、理解が困難な行動を取る人に対して、仮説構成概念によるモデルを用いることで、その行動を取る理由の理解に一歩近づけることはもちろん大いにあるでしょう。しかし、気をつけなくてはならないのは、そのモデルで示されている機序は、本当に障害そのものから来る物なのか、という事ですね。障害によって学習が困難であった行動が、生得的な能力の欠如に見えているのにすぎないのではないか、という視点。
自分はそんな事すら20年前はじっくり考えていなかったわけです。

当たり前ですが、本は常に自分の愚かさを教えてくれる装置
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