イーガンの「ぼくになることを」的、文章添削を巡る逡巡

世界一のSF作家であるグレッグ・イーガンが1990年に書いた傑作短編
「ぼくになることを」
はこんな話。
子供の頃から脳内に思考バックアップ装置「宝石」を取り付けらている未来。
本人が望んだときに脳は取り除かれ、老化しない「宝石」が新たな脳となる。
自分は「切り替えた」あとも自分なのか?
要は昔からある「体の一部を少しずつ取り替えていったら、換装が50パーセント超えても自分?」テーマだけど、さすがはイーガン、普遍性のある名作に仕上がっています。

最近、好むと好まざるとに関わらず、人の文章を校正しなければならない事が多々あるんですけど
「これ、ちゃんと推敲したのかな?」
と思うような文章に
「ご意見ください」とコメントつけて投げられると、困りますね。
チームでの仕事の場合は、みんなで意見を言うことになるんですが、いろんな人から意見をもらって
「ご意見いただいて直しました。再度ご確認お願いします」
と投げてきた文章に、また新たな綻びが、なんてこともよくある話です。

これを繰り返して、出来上がった文章を最終的に提出する時には「その人の仕事の成果」ということになりますけど、どこまでが本人の文章なんでしょうね?
書いている人の推敲が怪しいレベルの文章を、どこまで校正するべきなんでしょうかね?
書いている本人よりも、助ける側の方が悩んでいる、結構よくある風景。
時々「自分は文章が下手なので、敢えて直してもらうこと前提に、細かい事は考えずに書いてますよ、僕は!」なんて猛者が世の中にはいるので、こんなブログ記事書くだけでも結構悩む自分は胃が痛い日々です。

「ぼくになることを」はこの本に入ってます
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