その衝撃は、1回だけ行われた事前打ち合わせの時でした。
鈴木先生が授業構想の中で
「5月と12月の対比だけでなく、別の月を作ってみる」
と言った時でした。
何?この人今なんて言った?
耳を疑いましたね。
「今までになかった切り口」をさらっと出してくる人。
怖いわー。こんな人見たことないわー。
いいですかみなさん。
実は教員には2種類いるんです。
毎日の授業を普通にする人と、
毎日の授業に新しい何かを付け加えられないか?といつも考えている人
です。
まあ、知ってたけど鈴木先生ってそういう人ね。
でも、その「新しい物」がどうかしている。
「やまなし」の6月と2月を作ってみた
なんて授業見たことあります?
僕はないよ。
実際にこの授業を見ていて、まず納得したのが子どもたちがAIに向けて出している「注文」の質でした。
鈴木先生もnoteに書かれていましたが、自分なりに整理すると、子供たちは表面的には生成された物語に対して修正を求めているように見えますが、やっていることはAI生成文の「調整」ではないんです。
子どもたちは、宮沢賢治が『やまなし』の中で、どんな表現をしていたかを思い出しながら「それは違う」「そこはそうじゃない」と言っている。
つまり相手はAIであっても、基準にしているのは常に賢治の文章です。
AIに向かって話しているようで、実際には作品に向き直っているんですよ。その注文はすべて『やまなし』理解の延長線上にある。
生成物の出来を評価しているのではなく、原文にある賢治の表現とのズレを根拠に指摘しているんです。つまり、そのやり取り自体が、読み直しになっていて、より深い物語理解になっているわけです。
この構造を見ていると、鈴木先生の授業と、僭越ながら自分がこれまで書いてきた生成AIとのスタンスには、共通点があるように感じます。要は、AIは答えを持つ(持たせる)存在ではないということを前提とした上で「考えたように見せる仕事」をさせるのではなく、自分が考え続けるための相手として機能させる(べきである)という部分でしょうか。
その姿勢が根本にあるから「別の月を作る」というどうかしている発想が浮かぶんでしょうね。
五月と十二月を比べるだけでも「やまなし」が持つ文学的多層性に触れる手立てになります(そりゃあ、そうだ)。しかし、そこに原典には存在しない月を一つ置いた途端に、見える風景が変わってきます。
五月と十二月の前後にも、連続した月日と生き物たちの営みがあり、その連続性の中から、2つの月が選ばれている必然性が、別の月によって見えてくるわけです。
そんな手があったのか!
国語の授業でこれを本気で選択肢として置くのは、勇気が要ります。
いきなり「五月と十二月以外の月を作って考えてみよう」
と言われたら、普通の子どもたちは、戸惑う可能性が高いですよ。
何をすればいいのか分からず終わる子が出ても不思議ではありません。
その手立てが自然に機能していた理由はシンプルで、子どもたちがすでにAIをアシスタントとして使うことに慣れていたからでしょう。AIに任せるのではなく、自分が主導でAIと一緒に考える事が日常になっているから「別の月を作る」という少し変わった課題ですら自然な選択肢になったのでしょう。
トリッキーに見える授業は、突然成立するわけではないんです。
そうした課題に挑戦できる下地が、普段の授業の中で作られていてはじめて可能です。
AIを特別な道具として扱わず、思考補助として使い続けてきた積み重ねがあるからこそ、比較のために月を増やす、という選択が可能になる。
こういう無茶(失礼!)が成立する状態を日常として作ってきたこと自体が、
鈴木先生のすごいところで、この授業の一番「どうかしている」ところです。
そりゃあ、鈴木先生は余計なことは言わないわけです。
子供達と自分が一緒に作る、これまでにない国語の授業が目の前に爆誕しているんですから。
黙って見ているのが一番楽しいに決まってます。
このセミナー、これからも続くようで、なんともすごいことです。
来年見える風景は、まったく違う新しい何かかもしれませんね。
そう考えると恐ろしいやら、面白いやらで、もう1年健康で過ごしてその日その場に居合わせてみたいものだと思ったりします。


